イエスのたとえ話

放蕩(ほうとう)息子

エドくん
エドくん
えっへん!俺サマ、今日は宿題をしてきてやったんだぜぇ〜!!!
アララト先生
アララト先生
「おお!エドくん!そればワーーーンダフォーーですね!!素晴らしいです!!
アンナ
アンナ
でもエドくん、ここはなにもかいてないよ
エドくん
エドくん
うー(バレた?!)そそそそそこは、わわ分かんなかったんじゃなくて、見えてなかっただけだ!
マナくん
マナくん
(…エドくんの方が、すごく褒められてる…。ぼくも頑張ったんだけどなぁ…。)
アララト先生
アララト先生
マナくん、今日は何だか元気がなかったですが、どうかしましたか?
マナくん
マナくん
あ….アララト先生。うん…。ぼく、いつも頑張って宿題をしてるけど、エドくんの方が褒められてたから…
アララト先生
アララト先生
なるほど…。コホン。私にとっては、マナくんもエドくんも、大切な生徒ですよ。2人が頑張ってくれると、とても嬉しいんです。
そうだ!よい例え話があります。

昔、ある裕福な人に二人の息子がいました。

ある時、弟が父に自分の分の財産をくださいと言ったので、父は息子二人にそれぞれ分けてやりました。

そして、弟は遠い所へ行き、放蕩(ほうとう)三昧。あっという間にもらった財産を使い果たしてしまいました。

ところが、その地方に飢饉(ききん)がありました。財産を使い果たした後だったので食べる物がなくなり、とある人のところで豚の世話をしてやっとの思いで生き延びました。

そこで彼は本心に立ち返って、「お父さんの所へ帰って謝り、息子でいる資格のないわたしを雇人のようにしてくださいと言おう。」と思いました。

弟が家に帰って父に謝ると、父はすぐに祝宴を開きました。

それを見た兄は父に対して不満を言い、
「わたしは何年も一生懸命あなたに従って働いたのに、友達と遊ぶためのものもくれませんでした。なのに、放蕩三昧だった彼にはこんなに盛大な宴を開くなんて。」

すると、父はこのように答えました。

「わたしのものはいつも全部あなたのものだ。
でも弟は、死んでしまったと思ったのに、こうして無事に帰ってきてくれたのだから、喜んで祝うのは当たり前ではないか!」1

アララト先生
アララト先生
このたとえ話の登場人物たちは、それぞれ次のようにたとえられるんだ。

父親:天のお父様
息子たち:この世のすべての人々

そして、この話を理解するには、わたしたちが生まれる前にどこにいて、亡くなった後にどこに行くのか、ということを知っておくともっといいね。2

簡単に言うと、わたしたちは生まれる前に霊として天のお父様と一緒にいて、肉体を得て様々な経験から学ぶためにこの地球に来たんだ。
そして、この地球で善を行い、清い状態でいられたら、天のお父様のもとに帰ることができるのさ。

ところが、わたしたちは時に間違いを犯してしまうし、後先考えず好き放題過ごして、ひどい状態に陥ってしまうこともある。

でも、天のお父様はいつでも、子供たちが悔い改めて、自分のもとに帰ってきてくれるのを待っているんだよ。そして、それは遅すぎるなんてことは絶対にない!
深い深い愛で、ずーーーーっと待ち続けてくれているのさ。

もちろん、お兄さんのほうからすれば、自分はたくさん我慢してお父さんに従ってきたのに、長い間自由奔放(ほんぽう)に過ごしてきた弟がたくさんのものを受けるのを快く思わないかもしれない。でも、お父さんは、ずっと従ってきてくれた兄には十分に祝福を与えてくださるし、もう戻ってこないかもしれないと思っていた弟が帰ってくれば、もちろん弟にもたくさんの祝福を与えてくださる。

とにかく、天のお父様の、わたしたち子どもに対する 限りないの愛を感じることのできるたとえ話だよね。

ごきげんラクダ

その他

福音メディア「放蕩息子」

脚注

  1. 『新約聖書』ルカによる福音書 15章11-32節
  2. 『福音の原則』「第2章:わたしたちの天の家族」