じゃあ、今日はそんな迷える子羊マナくんにぴったりの、イエス様が話した「良いサマリヤ人」というたとえを紹介するね!
良いサマリア人
ある人がエルサレムからエリコに行く途中、強盗達が彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせたまま、逃げ去ってしまいました。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下って来ましたが、この人を見ると、離れた所を通って行ってしまいました。同様に、レビ人もこの場所にさしかかりましたが、彼を見ると道の反対側を通って行きました。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いで包帯をしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました。
翌日、お金を取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言いました。1
この話が語られた、約2000年前のユダヤで、祭司やレビ人というのは神殿で神様から定められた儀式を執り行う重要な役割を持っている人達だったから、人々から尊敬される立場にあったのさ!
そして同時に、隣人を助け、愛するということについても人々の模範となるべき責任があったんだね。なのに2人とも、死にかけている人がいるのを見て、あえて見て見ぬ振りをして、面倒ごとに関わるのを避けていった。
反対に、サマリヤ人というのがどういう人達だったかというと、この話の舞台であるエルサレムに住んでいたユダヤ人から、歴史的な経緯があってとても嫌われていたんだ。憎まれていた、と言ったほうが正しいかもしれないね。3でも、このサマリヤ人は、そんな2つの人種間のあつれきにもかかわらず、倒れている人に手当をして、宿代も出してあげた。すごいと思わないかい?
このたとえ話からわかることだけど、僕は、神様が本当に望んでいることは、地位や名声を得て人々に尊敬されることではなくて、純粋な思いやりと助け合いを行動に移すことなんだと思うのさ。
もしかしたら、祭司とパリサイ人には、何か急ぎの用があったかもしれないし、サマリヤ人との間に昔何か嫌なことがあったのかもしれない。でも、それでも、自分に言い訳を作らずに人に愛を示せるってことが、本当の愛なんじゃないかな。
ぼくもサマリヤ人みたいに、みんなに優しくできるようにがんばってみる!
ごきげんラクダ
その他
・ジェームズ・E・タルメージ
『キリスト・イエス』p421「わたしの隣り人とはだれのことですか」
・YouTube 良きサマリア人のたとえ